受賞に関する事実は、スウェーデン王立科学アカデミーの発表と、末尾の報道(東京理科大学・リセマム・nippon.com)で確かめたものだけを書いています。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 発表 | 2026年10月7日、スウェーデン王立科学アカデミー |
| 受賞者 | アンリ・カガン(Henri B. Kagan)1930年フランス生まれ。旧パリ南大学(Université Paris-Sud、現在はパリ・サクレー大学に統合)名誉教授 硤合憲三(そあい・けんそう、Kenso Soai)1950年広島県生まれ。東京理科大学名誉教授 |
| 授賞理由 | 不斉有機合成における非線形効果と自己触媒作用の発見 for the discovery of non-linear effects and autocatalysis in asymmetric organic synthesis |
| 賞金 | 1,200万スウェーデンクローナを2人で等分 |
| 授賞式 | 12月10日、ストックホルム |
| 日本からの受賞 | 化学賞は前年(2025年)の北川進氏に続き2年連続。日本人の受賞者は31人目(米国籍を取得した人を含めた数え方) |
アミノ酸のように、互いに鏡写しの二つの型をもつ分子がある。しかし生物は、そのうち片方しか持たない。こうした化学の非対称がどうして生まれえたのかは、長く化学者にとっての謎だった。
“Some molecules, such as amino acids, exist as two variants that are each other’s mirror image. However, living organisms only contain one of these mirror images. How chemical asymmetry such as this could have emerged was long a mystery to chemists.”
— スウェーデン王立科学アカデミー 発表文(2026年10月7日)。和訳は当サイト触媒の中で右と左を混ぜると、生成物の偏りが触媒の偏りより大きくなることを見つけた。それまで両者は比例すると考えられていた。
生成物が自分と同じ型を作る触媒になる反応を設計した(1995年の論文)。2003年までに、キラルなものを加えずに始めても片方の型が全体を占める反応を示した。公式発表は、これを生命そのものを除けば初めての成果としている。
分子には、形は同じでも鏡に映したように重ならない「右手型」と「左手型」(鏡像異性体)があります。この性質をキラリティーと呼びます。
ギリシャ語の「同じ(homo)」と「手(cheir)」から。分子の集まりが右手型だけ、または左手型だけでできている状態のことです。生命の化学はホモキラル。アミノ酸には鏡写しの2つの型がありますが、細胞のタンパク質に入っているのは片方だけで、もう片方は自然界ではまれにしか見つかりません。今回の賞は、化学反応でホモキラリティーに至る道筋を示した発見に贈られました。
普通に反応させると、右手型と左手型はちょうど半々できます。どちらかを選ぶ理由が反応の中に無いからです。公式発表によれば、化学者が鏡写しの分子ができる反応を試すと、試験管の中ではいつも両方が同じ割合でできました。それでも片方だけを作ろうとしてきたのは、医薬のように生き物に働きかける分子では、狙った効き目を持つのが片方だけだからです。
硤合反応では、できあがった生成物そのものが触媒になり、自分と同じ型をさらに作ります(不斉自己触媒反応)。右手型が少しでも多いと、右手型の触媒が少し多く働き、次の回にはさらに右手型が増える。この繰り返しで、ごくわずかな左右の偏りが大きく増幅されます。
原料はピリミジン環にアルデヒド(−CHO)が付いた分子で、ここに有機亜鉛の試薬ジイソプロピル亜鉛(i-Pr₂Zn)を加えます。できるのはアルコールの亜鉛塩(亜鉛アルコキシド)で、これに(S)型と(R)型があり、それぞれが自分と同じ型を作る触媒になります。原料と試薬を使い切ったら足して、また反応させます。
ee は「多い方 − 少ない方」が全体に占める割合です。割合に直すと、多い方 = (100% + ee) ÷ 2。
| ee(図の数字) | 0.00005% | 57% | 99% | 99.5%超 |
|---|---|---|---|---|
| 多い方の割合 | 50.000025% | 78.5% | 99.5% | 99.75%超 |
はじめは200万個あたり1個分しか差がない。それが3回の実験で、ほぼ片方だけになります。ノーベル委員会の科学的背景は、左右の比が約63万倍に増幅されたと書いています。
| たとえ | 対応する概念 | 内容 |
|---|---|---|
| 右手と左手、手袋 | キラリティー | 形は同じでも重ならない。体の中では片方しか役に立たない。 |
| 合鍵屋 公式解説のたとえ | 鏡像異性体と医薬 | 鍵を作ると必ず鏡写しの2本ができ、錠に合うのは1本だけ。もう1本を差すと錠を傷めることもある。見分けにくいので、客は両方を受け取ってしまう。 |
| 相殺される少数派 | 非線形効果(カガン氏) | 右と左が組んだ触媒はほとんど働かない。組み合わせは偶然で決まるので、触媒の右:左が75:25なら、働く触媒は90:10になる(4章②)。 |
| 行列のできる店、規格争い | 自己触媒(硤合氏) | 並んでいる店にさらに人が並ぶ。少し優勢な側がネットワーク効果で総取りする。 |
非線形効果とは、触媒の左右の偏り(純度)と、できる生成物の偏りが比例しない現象です。カガン氏の発見を硤合氏の自己触媒で繰り返すと、増幅が回を重ねて効いていきます。4章で両方を動かせます。
キラルとは「鏡に映した姿と、どう回しても重ならない」こと。この定義だけで判定する練習ができるゲームを、ノーベル財団が公開しています。
ノーベル財団(Nobel Prize Outreach)の教育ゲーム。2001年の化学賞(キラルな触媒による水素化・酸化反応)に合わせて作られたもので、2026年の賞の前提になる「キラルとは何か」をそのまま扱っています。
鏡を見たカタツムリが「殻の模様が鏡写しの、キラルないとこ」に出会うところから始まります。いとこが、分子を回しても鏡像と重ならなければキラル、重なればキラルでない、と教え、最後にカードをめくってキラルなペアを探す神経衰弱をします。
| カード | 判定 | ゲームの説明(要旨) |
|---|---|---|
| 右手と左手 | キラル | どう回し、曲げても重ならない |
| ペン | キラルでない | 鏡像を回せば重なる |
| ボール | キラルでない | 鏡像を逆さにすれば重なる |
| 鏡写しの分子 | キラル | 鏡像どうしで、重ならない |
| 同じ部品が2つある分子 | キラルでない | 実は同じ分子。なぜか考えてみよう |
遊び方:ページを開いて中央の再生ボタンを押し、NEXT で進みます。Flash で作られた作品を、ブラウザ上の再生ソフト(Ruffle)で動かしています。音が出ます。
ゲームの考え方で、身の回りのものと分子を判定してみましょう。押すと理由が出ます。
炭素は4本の手を持ち、正四面体の頂点の向きに部品が付きます。4つがすべて違う部品なら、鏡像は元と重ならない(この炭素を不斉炭素と呼ぶ)。2つ以上が同じ部品なら、鏡像を回すと重なるのでキラルでない。ゲームの最後の問い「実は同じ分子。なぜか」の答えがこれです。
ただし目安です。不斉炭素が2つあっても分子の中に鏡の面があってキラルでないもの(メソ体。酒石酸の一つの形がそう)や、不斉炭素が無くてもキラルな分子もあります。
実験値ではなく、増幅の感覚をつかむための簡易モデルです。②がカガン氏の発見の一歩、①がそれを硤合氏の自己触媒で繰り返したもの、③が「何も加えずに始める」実験の模型です。
金属1個に、右手型か左手型の部品(配位子)が偶然2つ組みついて触媒になるとします。できる触媒は「右+右」「右+左」「左+左」の3種類。右+右は右手型を、左+左は左手型を作り、右+左は左右半々を作ります。
右の図は、横軸が触媒の偏り、縦軸が生成物の偏り(どちらも鏡像体過剰率)。点線は「比例する」と考えられていた直線。右+左がほとんど働かないと曲線は直線より上にふくらみ、偏りが増幅される(正の非線形効果)。右+左の方がよく働くと下にへこみ、偏りは薄まる(負の非線形効果)。カガン氏の1986年の論文は、この曲がったグラフで発見を示しました。
②で右+左が働かないときの計算 p → p² / (p² + (1−p)²) を、毎回の生成物を次の回の触媒にして繰り返します(75%なら次は90%)。はじめの右手型の割合を選んでください。
| 反応の回数 | 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 右手型の割合 | 51% | 52% | 54% | 58% | 65% | 78% | 93% | 99.4% | ほぼ100% |
はじめが51%なら、わずか2ポイントの差が数回の繰り返しでほぼ100対0になります。はじめの差を小さくしても回数が少し増えるだけで、行き着く先は同じです。
この模型の「1回」は、実験の「1回(run)」とは対応しません。1回の実験の中で触媒は自分の何倍もの生成物を作るので、模型の何世代分もが一度に進みます。公式図の 0.00005% → 57% は、模型ではおよそ21回分にあたります。
数式の上では、ちょうど半々なら何も起きません。ところが現実の分子は有限個なので、ちょうど半々にはなりません。それが③です。
最初の反応で右手型と左手型を1万個ずつの確率で作ると、偶然わずかな差が出ます。その差を①の仕組みで増幅すると、試験管ごとにどちらが勝つかが変わります。
ノーベル委員会の科学的背景によると、硤合氏はこの実験を37回行い、18回は(R)型、19回は(S)型が多くなりました。どちらが勝つかは、始まりの偶然で決まります。米国のシングルトン氏も、独立に同じことを示しました。外から片方の型を与えずに偏りが生まれる、このことを「絶対不斉合成」と呼びます。
公式解説は、今回の賞を19世紀半ばから続く「考えの鎖」として描いています。
| フランクの条件(1953) | 中身 | 満たした仕事 |
|---|---|---|
| ① キラルな触媒と不斉反応 | 片方の型を多く作る反応がある | マルクヴァルト(1900年代初め)、2001年・2021年の化学賞 |
| ② 片方を強め、もう片方を抑える | 多い方が有利になり、少ない方の働きが落ちる | カガン(1986、非線形効果) |
| ③ 反応が触媒そのものを作る | 自己触媒。多い方が指数関数的に増える | 硤合(1995、2003) |
公式解説によれば、2026年の賞は残っていた②と③を満たした仕事に贈られました。硤合反応は、外からキラルな影響を与えずにフランクの模型を実験室で確かめた最初の例でもあります。
「左」「右」は、分子を決まった向き(フィッシャー投影)で描いたとき、目印の部品がどちら側に来るかで付けた名前です。
フィッシャー投影では、横の線は手前に、縦の線は奥に向かう結合を表します。
同じアラニンを立体で見たものが公式図の上段です。左の L-アラニンと右の D-アラニンは鏡写しで、どう回しても重なりません(3章のゲームの「鏡写しの分子」)。黒が炭素、青が窒素、赤が酸素、白が水素です。
下段はホモキラリティーの例。L-アラニン、L-ロイシン、L-バリンと、タンパク質を作るアミノ酸は左手型でそろっています。大事なのは「左であること」より「全部がそろっていること」です(下の②)。
上のフィッシャー投影は、この立体を決まった向きから平らに描いたものです。立体の図で NH₂(青)がどちらにあるかを見ても左右は分からず、描き方の約束をそろえて初めて「左」と言えます。
| 分子 | 目印の部品 | 生命が使う型 | 描いたときの位置 |
|---|---|---|---|
| アミノ酸(例: アラニン) | NH₂ | L型(左手型) | 左 |
| 糖(例: グリセルアルデヒド) | OH | D型(右手型) | 右 |
別々の分子ファミリーで、それぞれに左右のペアがある。「アミノ酸チームは左を採用、糖チームは右を採用」という理解が正確です。
ネジがほぼ右ネジに統一されているのと同じ。混ざると組み立てられない。タンパク質のらせんもDNAの二重らせんも、部品の向きが揃っているから巻けます。
L型アミノ酸でできた酵素は片手用の手袋。その手袋に合う糖がD型だった、という関係です。
| 記号 | 何で決めるか | 使われる場面 |
|---|---|---|
| D / L | フィッシャー投影で描いたとき、目印の部品が右か左か(描き方の約束) | アミノ酸・糖。この頁の「アミノ酸は左、糖は右」 |
| R / S | 部品に優先順位を付け、立体的に見て順番が右回りか左回りか | 公式図の (S) と (R)。現在の化学の標準 |
| (+) / (−) | 実際に偏光を右に曲げるか左に曲げるか(測って決める) | パスツールの酒石酸の実験 |
三つは一致するとは限りません。たとえば L-アラニンは偏光を右に曲げ(+)、R/S では S です。L-システインは硫黄の優先順位が高いため R になります。「L型アミノ酸は偏光を左に曲げる」と説明されることがありますが、記号と光の向きは別のものです。
なぜ最初にL型アミノ酸が選ばれたのかは未決着です。有力な筋書きは「偶然か宇宙由来の小さな偏りが増幅されて固定された」というもので、硤合反応はこの「増幅」の部分に化学の足場を与えました。
生命の起源研究の中心的な未解決問題の一つです。ただし自己複製・代謝・膜の起源と並ぶ柱の一本で、これだけで起源が解けるわけではありません。
RNAの鎖を鋳型に沿って伸ばす実験で、逆向きの部品が伸長を妨げることが知られています。統一は生命の「結果」というより「前提条件」に近い。
生物は酵素で片方の型だけを作るが、その酵素自体が片方の型でできている。硤合反応は、生物抜きでもこの循環を破れると示しました。
自然界の「弱い力」は左右を区別します。ただし分子に与える差は極めて小さく、生命の偏りの原因かは未証明です。
硤合反応は感度が高く、ノーベル委員会の科学的背景によると、円偏光を当てた分子、鉱物(水晶など)や有機結晶の表面、炭素や水素の同位体の違いだけで生じるキラリティーによっても、どちらの型が勝つかを決められることが示されています。宇宙や鉱物の小さな偏りが増幅されて固定された、という筋書きを試す道具になっています。
硤合反応は有機亜鉛を使う特殊な条件で、原始地球でそのまま起きたとは考えにくい。ノーベル委員会の科学的背景も、水の中での生命の起源にそのまま当てはまるものではないと書いています。「原理的に可能」の証明であり、実際の経路の再現ではありません。
隕石にL型アミノ酸が多いという話も確定ではありません。小惑星から直接持ち帰った試料では左右ほぼ半々だったという報告があります。
向きの統一は生命誕生の前ではなく、初期進化の途中で起きたという見方もあります。いまの研究は、アミノ酸や糖そのもので同じことを起こす道を探しています。
片方の型だけが見つかれば、生命の強い証拠になります。火星などの生命探査でキラリティーが指標にされる理由です。左右半々の有機物は生物がいなくても作れますが、片方に揃った有機物は、それを作る仕組みがあったことを示します。
ここはセッションのまとめに、もくもく会の関心から足した読み筋です。個別の判断を示すものではありません。
医薬では右手型と左手型で効き目や副作用が違うことがあり、片方だけを効率よく作る不斉合成は工業的に重要な技術です。2001年と2021年のノーベル化学賞も不斉触媒に贈られました。公式解説は、カガン氏の非線形効果が、医薬・香料・香り・農薬・新素材の反応を設計する化学者の道具になったとしています。触媒・製法は特許とノウハウの両方で守られてきた領域です。
左右半々の混合物(ラセミ体)が公知のとき、片方だけを取り出した物が特許になるかは、選択発明・進歩性の典型的な論点です。予想できない効果を示せるかが問われます。発見そのもの(自然法則)は特許の対象にならず、それを使う方法や物が対象になる、という区別もここで確かめられます。
公式解説は、純粋な鏡像異性体を作る重要性の例として、1960年代初めのサリドマイド事件を挙げています。ただしサリドマイドは体の中で右手型と左手型が入れ替わることが知られており、片方だけを飲んでも害は避けられないとされます。片方だけを作る技術の価値と、それだけでは足りない場合があることを、分けて押さえておくのが安全です。
わずかな偏りが、自分で自分を増やす仕組みによって全体を塗り替える。カガン氏は偏りを強める仕組みを見つけ、硤合氏はそれを繰り返す反応を作って試験管の中で実証し、「なぜ生命は片方の型だけを使うのか」という問いに化学的な足場を与えた。
2026年10月8日に閲覧して確認しました。
発表文の引用の和訳は当サイトによるものです。2〜7章のうち出典を示していない解説(D/L・R/S・(+)/(−)の違い、生命起源研究の一般的な議論など)は一般的な化学の知識に基づく説明で、たとえと簡易モデルは理解のためのものです。8章は編集部の補足で、法的助言ではありません。