AIを仕事に実装する — 第2回

AI時代の現象学的知性論

このページは、noteに投稿した内容と同じです。

AIの目に何を見せるか

生成AIに何かを頼むとき、私たちは何を渡しているのだろうか。

情報、指示、目的、制約。一般にはそのように説明される。曖昧な依頼より具体的な依頼の方がよく、前提や条件を詳しく書けば出力の精度が上がる。間違いではない。しかし、この説明をいくら積み上げても、生成AIとの対話で生じる奇妙なずれを十分には捉えられない。

必要な情報を与えた。避けてほしいことも書いた。出力形式も指定した。それでも、返ってきた文章を見ると、言葉の意味は合っているのに、こちらが見ていたものとは違う。内容の不足というより、対象の捉え方そのものがずれている。生成AIは指示された仕事をしているはずなのに、別のものを見ている。

ここで問いたいのは、欲しい答えをどれだけ正確に説明できるかではない。

AIの目に、何を見せているのか。

良いプロンプトと悪いプロンプトを並べ、目的、背景、役割、形式を書きましょうと説明する記事は、すでにいくらでもある。私が問題にしたいのは、そのような分解のさらに手前にある。そもそも人間の側では、対象がどのように現れているのか。なぜその対象を、その状態、その意味、その重みで見ているのか。その構造を取り出せないままでは、条件を増やしても、AIに見せたいものは定まらない。

生成AIとの対話は、外部にいる知能へ仕事を委託するだけの行為ではない。自分が対象をどのように見ているかを外部化し、それを別の場所で再構成させ、出力として受け取る行為でもある。AIの出力を読み返すとき、そこに現れているのは回答だけではない。自分が外へ出した見方と、外へ出せなかった見方も現れている。

この往復を、私は現象学の側から考えたい。

名前を渡しても、同じ対象は現れない

たとえば、目の前に丸のままのリンゴが一個置かれているとする。

これを伝える最も簡単な方法は、「リンゴが一個ある」と言うことだろう。短く、分かりやすい。しかし、その言葉だけでは、こちらが見ている状態までは決まらない。切られたリンゴかもしれない。木になっているリンゴかもしれない。皿の上に置かれているのか、手に持っているのかも分からない。「リンゴ」という名称は対象を大まかに特定するが、その対象がどのような状態で現れているかまでは特定しない。

人間同士であれば、その場の状況が多くを補う。視線の先、共有している場所、直前の会話が、言葉にしていない部分を埋める。しかし生成AIとの対話では、こちらが当然に見ているものが、そのまま共有されているわけではない。対象名を一致させたからといって、同じ対象が立ち上がるとは限らない。

フッサール現象学には、志向性という考え方がある。意識は、つねに何かについての意識である。見る、思い出す、疑う、判断するといった働きは、どれも何かへ向かっている。重要なのは、対象と無関係な意識の働きだけを取り出せないという点である。意識の働きは対象へ向かい、対象はその働きとの相関の中で現れる(Husserl, Ideen I, §§36, 84)。

対象は、一度にすべてを見せるわけでもない。リンゴの正面を見ているとき、その裏側は見えていない。それでも私たちは、目の前に薄い円盤が浮いているとは考えず、裏側を持つ一個の果実を見ている。いま見えている側面は、まだ見えていない側面や、少し位置を変えれば見えるはずの側面と結びついている。この、現在与えられているものを越えて、まだ与えられていない側面や可能な経験を指し示す広がりを、現象学では地平と呼ぶ(Zahavi 1997)。

地平は、背景情報の一覧ではない。現在見えているものが何であるかを支える、開かれた可能性の構造である。リンゴの裏側が具体的にどのような傷を持つかは分からなくても、裏側があるものとして対象は現れている。分かっている部分と、まだ決まっていない部分が一緒になって、一つの対象を成立させている。

この意味で、AIへ渡しているのは名称だけではない。どの側面を前に出し、どの可能性を残し、何を別のものとして退けるのか。その対象が対象として成立するための条件を渡し、AIに再構成させている。

AIに情報を渡しているのではなく、自分の志向性の形を渡している。

もちろん、「志向性の形」はフッサールの用語ではない。ここでそう呼んでいるのは、目的、対比、否定、前景と背景、まだ開いている可能性を含めて、自分が対象へ向かっている構造のことである。プロンプトの表面に並ぶ語句だけではなく、それらの語句を選ばせている見方そのものを指している。

「外側を囲う」とは何をしているのか

対象を正確に伝えたいとき、中心を何度も言い換えるだけでは足りないことがある。そこで私は、伝えたいことの「外側を囲う」という考え方を使う。

外側を囲うとは、対象名を直接指定しないという奇妙な作法ではない。直接指定は速いし、それで十分な場面も多い。問題になるのは、一つの名称の周囲に複数の解釈が開いたまま残り、そのうちどれを閉じるべきかが出力へ反映されていない場合である。

丸のままのリンゴを見せたいなら、「リンゴ」と繰り返すのではなく、切られていない、一個である、木になっていない、目の前に置かれている、と周辺から限定していく。中心の説明を増やすというより、中心ではないものへ逃げる道を一つずつ塞ぐ。最後に残った領域へ、AIの解釈を誘導する。

この感覚は、特許請求項の書き方に少し似ている。特許請求項は、発明の名称だけで権利範囲を定めるのではなく、構成要素やその関係を記述し、どの範囲を対象とするかを定めていく。ただし、ここで特許実務をそのままAIへの指示へ移したいわけではない。対象の中心を叫ぶ代わりに、構成と関係から外側を定める感覚が近いというだけである。

ベン図を口頭で説明する場面にも似ている。複数の集合を示し、その交差部分に残るものとして対象を特定する。何であるかだけでなく、何と重なり、何から外れ、どこに位置するかによって、中心が決まる。

外側を囲うことは、対象を細かく分割することとも違う。分割は、全体を部品に分ける操作である。外側を囲う操作で扱っているのは、相手の前に対象がどう現れるかである。AIが別の状態、別の文脈、別の評価軸へ移動する可能性を見つけ、そのうち不要なものを閉じる。条件の数が多いほどよいわけではない。どの解釈可能性を残し、どれを閉じるかが問題になる。

ここを条件列挙の技術として読むと、結局はプロンプト術へ戻ってしまう。外側を囲うために本当に必要なのは、条件を書く能力ではない。なぜその条件が必要なのかを知ることである。

そして、そのためには人間の側が、自分の見方を先に取り出さなければならない。

外側を囲う前に、自分の見方を取り出す

自分が何を見ているかは、自分には明らかであるように感じられる。丸のままのリンゴを見ているなら、その状態は最初から分かっている。だから「リンゴ」と書けば伝わると思う。しかし、丸のまま、一個、置かれている、木になっていない、という条件は、対象そのものに書き込まれているわけではない。それらを一つの状態としてまとめ、重要なものとして選んでいるのは、こちらの見方である。

自分にとって当然であることほど、言葉の外へ落ちやすい。

AIへの指示が難しいのは、頭の中の完成形を文章に変換するのが難しいからだ、と説明されることが多い。私はそれだけだとは思わない。完成形の前に、自分が対象を成立させている条件が見えていない。欲しいものを説明できないのではなく、なぜそれを欲しいものとして見ているのかを、自分でもまだ観察していないのである。

ここで、エポケーと現象学的還元が関係してくる。

エポケーは、世界や対象を否定することではない。自然な態度の中で当然に効いている判断を、いったん括弧に入れる操作である。目の前の世界が存在するかどうかを疑って壊すのではなく、その存在を当然の出発点として使うことを一度止める。そうすることで、対象がどのような仕方で与えられ、どのような前提のもとで意味を持っていたのかを見る余地が生まれる(Husserl, Ideen I, §§31–32)。

現象学的還元は、その余地の中で、分析の向きを変える。対象が何であるかだけを調べるのではなく、その対象が主観にどのように与えられ、どのような相関の中で対象として成立しているのかを見る。エポケーが自然な定立の効力を括弧に入れる側面だとすれば、還元は、そこから対象の与えられ方へ視線を向け直す側面である。両者は別々の小技でも、同じ語の言い換えでもない。一つの方法的転換の消極面と積極面として捉えた方がよい(Vincini 2021)。

リンゴという名称をいったん外してみる。すると、丸のまま、一個、置かれている、木になっていない、といった条件が、対象の本質そのものではないことが見えてくる。同時に、それらがなければ、いま見ているこのリンゴの状態をAIに再構成させられないことも分かる。

AIに対して行うのは、エポケーの単純な逆ではない。括弧に入れたものを、何も考えずに全部戻すのでもない。いったん括弧に入れたことで見えるようになった地平のうち、その対象の現れ方に必要なものを選び、AIへ戻していく。

ここに、現象学とAIとの接点がある。

現象学を知っているから専門用語をプロンプトに書ける、という話ではない。対象をそのまま受け取らず、自分が何を前景化し、何を背景へ退け、どの可能性を閉じているのかを見る。その習慣があるから、自分の見方をAIへ渡せる形に変換しやすくなる。

外側を囲う能力は、その結果として現れる。先に自分の見方が観察され、その後で、どの地平をAIへ戻すかが選ばれる。条件を上手に書けるから対象の現れ方を制御できるのではない。対象の現れ方を観察できるから、必要な条件を選べるのである。

AIの出力から、自分の見方を読み返す

ここまでの話だけなら、現象学を使って入力を改善する方法に見えるかもしれない。しかし、入力は往復の半分にすぎない。

AIの出力には、人間が外部化した見方が再構成されて現れる。期待したものに近い場合もあれば、別の方向へずれる場合もある。ずれが起きたとき、AIが指示を理解できなかった、能力が足りなかった、という可能性は当然残る。すべてを人間側の責任へ戻すべきではない。

一方で、出力のずれによって初めて、自分が渡していなかった条件に気づくこともある。言わなくても共有されると思っていた前提。重要なのに前景化しなかった要素。閉じる必要があると気づかなかった解釈。AIが別の対象を立ち上げたことで、こちらが暗黙に選んでいたものが逆向きに見えてくる。

この関係を考えるために、ノエシスとノエマという区別が使える。ごく限定して言えば、ノエシスは対象へ向かう側面、ノエマはその働きの相関項として向かわれている側面である(Husserl, Ideen I, §§87–88)。ただし、ノエマと対象の関係には複数の解釈があり、ここでその存在論を決着させる必要はない(Hirvonen 2022)。

また、AIへの入力をノエシス、AIの出力をノエマと呼べば、そのままフッサールの理論になるわけでもない。人間側の見方と、AIの出力上に再構成された対象を区別して読むために、この相関を類比として使っている。

類比に留めても、見えてくることはある。

たとえば、丸のままのリンゴを現れさせるために渡した条件のうち、何が出力に残り、何が失われ、何が勝手に補われたのかを見る。そこではAIの再構成能力を評価しているだけではない。自分がリンゴをどの状態として見ていたのか、どの条件を不可欠と考え、どの部分は変更されても同じ対象だと考えていたのかを読み返している。

AIの出力は、こちらが与えた志向性の形を、そのまま正確に複製する鏡ではない。変形し、欠落させ、補完する。その不完全さがあるからこそ、外部化された見方を観察できる。完全に一致した出力だけを受け取っていたら、自分がどのような条件を渡していたのかは、かえって見えないままかもしれない。

生成AIとの対話は、自己の認識構造を観察する場になる。

この点を外すと、議論は入力技術のところで止まる。どう書けば望む答えが返るかという話はできても、なぜその答えを望み、なぜ別の答えをずれとして認識するのかは問われない。AIを使うことで本当に露出するのは、プロンプトの巧拙だけではない。自分が対象を成立させている仕方である。

この往復を「現象学的知性」と呼ぶ

AI時代の知性を、情報量や処理速度だけで測ることは難しくなっている。大量の文章を読み、要約し、分類し、組み合わせる仕事の一部は、すでに生成AIが行う。そのとき人間側に残るものを、判断力や問いを立てる力と呼ぶだけでは、まだ曖昧である。

必要なのは、対象の現れ方を観察することだ。自分が何を前景化し、何を背景へ退け、どの可能性を開き、どれを閉じているのかを取り出す。その構造をAIへ渡せる形に外部化する。返ってきた対象を見て、自分の見方がどう再構成され、どこで失敗したのかを読み返す。

私は、この往復を可能にする能力を「現象学的知性」と呼びたい。

現象学的知性は、哲学用語を多く知っていることではない。AIへの指示文を長く書けることでもない。対象がすでに決まった意味を持ってそこにあるかのように扱わず、自分と対象の相関を観察し、その構造を外部へ移し、戻ってきたものから再び自分を読む能力である。

現象学をやっている人が、AIへの指示や扱いに自然と強くなることがあるとすれば、理由はここにある。プロンプトの型を知っているからではない。対象を名指す前に、その対象がどのように現れているのかを見ようとする。その見方を取り出せるから、AIの目に何を見せるべきかを考えられる。

リンゴという名前では足りなかった。外側を囲うことで、中心以外へ逃げる道を閉じた。その外側を選ぶために、自分の見方をいったん取り出した。そしてAIの出力から、その見方を読み返した。

AIを使いこなす力とは、AIについての知識だけではない。

自己の認識が、対象をどのように現れさせているのかについての知識である。

参照文献