知財実務オンライン 第301回を終えて / 2026.08.27

日本刀とドローン

用意していったのは「AIを適用してみた3年後の現在地」という話でした。ところが本番でいちばん時間を使ったのは、 スライドに一行も書いていなかった話です。知財の世界で、非対称戦がもう始まっているのではないか。 その場で司会のお二人と行き着いた問いを、忘れないうちに書き残しておきます。

ゲスト 羽矢﨑 聡稲葉 凪 進行 加島 広基押谷 昌宗 90
01 ── 用意していった話

3年前の自分を、まず採点した

前回この番組に出たのが2023年8月、第155回でした。「新事業創出×知的財産戦略 ― ゴールドラッシュ時代に何が儲かるか」。 その回で、私は生成AIの話を一言もしていません。

今回はそこから始めました。ただし「見えていなかった」ではありません。その2ヶ月前にあたる2023年6月、 私は「ChatGPTで変わる知財業務DX」という公開イベントに登壇しています。しかも当日の資料自体をChatGPTで作っていた。 使ってはいたのに、2ヶ月後に戦略の話をしたとき、一度も持ち出さなかったのです。

この点を、進行の押谷さんが正面から突いてきました。

人前でしゃべるくらいまでイメージが出なかったのか、それとも「ChatGPTはチャット相手だから、そこまで本質は変わらないだろう」という認識だったのか。

押谷 昌宗(進行)

答えは後者に近いものでした。当時の私は、聞いて答えてもらう一次処理だけを頼んでいた。請求項の対比表を作る、 スライドの下地を作る。そこまではできた。けれど「連続する未来」を考えていなかった。 このスライド自体を数分でHTMLにしてしまうような時代が来るとは、まるで見えていませんでした。

つまり私の失敗は、予測を外したことではなく、道具として使っていたのに、自分の本業と接続していなかったことです。 当日の言葉でいえば、3年前の私は「チャット止まり」の第1段にいました。

変わらなかったもの

一方で、金沢工業大学大学院で丸島儀一先生から教わった三位一体――事業・研究開発・知財を連動させて仮説検証を回す型――は、 まったく古びていませんでした。AIが上げるのは実行速度と、一度に見渡せる範囲です。 何のために戦うのかを決める覚悟と責任は、いまも人間の側に残っています。

料理人より先に、冷蔵庫

今回いちばん持ち帰っていただきたかったのがこの比喩です。フランス料理のフルコースを作れる料理人に、 カップラーメンを作ってもらってももったいない。そして腕のいい料理人でも、冷蔵庫が空なら何も作れません。

知財でいえば、素の状態で「アイデアを考えて」と無茶ぶりしても、それなりのものしか返ってきません。 けれど自分たちの立つ領域の特許データベースを手元に持っていると、驚くほど良いものを返してきます。 冷凍庫に入れるもの、冷蔵室に入れるもの、飲み物を分けておくと取り出しが速くなるのと同じで、 分類を扱える道具を揃えるほど、シェフは働きやすくなる。

もうひとつがフローからストックへ。1回聞いて答えをもらうだけなら、その答えは消えます。 結果を貯め続けると、蓄積そのものが次の材料になる。

82時間の工場と、その反省

金曜の夜に点火して月曜の朝に止めるまで、ローカルのLLMを82時間動かし続けた話もしました。 審査官役・調査役・発明者役のエージェントを立てて戦わせ、生き残ったクレーム候補が数千件。

ただしこれは自慢話ではなく反省材料です。停止条件を「月曜の朝」という時刻だけにしていたので、 すでに見つけた筋を三日間再生産し続けていた。しかも生産量の多かった領域は、後から調べると筋の良くない領域でした。 工場は建てただけでは足りません。何を作らせ、いつ止めるかの設計が要ります。

02 ── その場で立ち上がった話

日本刀を研いでいる間に、ドローンが二十機来る

ここからが、スライドに書いていなかった部分です。きっかけは加島さんの問いでした。

エンジニアが研究開発するより先に、AIがクレームを出し尽くして公開してしまったら、もう全部公知になってしまう。そういう世界観もあり得るのでは。

加島 広基(進行)

これに対する私の答えは、「もう起きていると思います」でした。

実際に自分でやってみて分かったことがあります。評価役のエージェントを組もうとしたとき、 AIの側から「評価基準に米国の審査基準を入れてはどうか」と提案が返ってきたのです。 つまり審査を通る水準を評価関数に置いた工場は、いま普通に作れてしまう。 ある領域を押さえたいなら、その周辺に大量に出願することは現実に可能です。

押谷さんからは、さらに踏み込んだ指摘がありました。権利化まで進めるなら審査請求の費用がかかるけれど、 審査請求をせず公開だけしてしまえば、誰も権利を取れなくすることはできる。制度の外側から効かせる手が残っている、と。

そこで出したのが、この比喩でした。私たちはこれまで、一本百万円かけて日本刀を研ぐような権利化をやってきました。 でも五万円のドローンを二十機ぶつけられたら、その一本で勝てるのか。 サイバー空間ではすでに起きていることです。攻撃側が圧倒的に安い。知財空間でも同じことが起きうる。

ただし、断定はできません

これは私の仮説であって、統計で裏づけたものではありません。番組内では出願件数の動きについても話題が出ましたが、 原因の特定は誰にもできていません。私が言いたいのは「もう負けている」ではなく、 この可能性を計算に入れずに戦い方を決めるのは危ないのではないか、ということです。

国ごとの構えの違いも見えます。ざっくり言えば、米国は芯を食った基本特許をきちんと押さえにいく。 中国はそれを数でカバーしにいく。日本は、また別のルートで追いつこうとしている。 この差を横並びで読めること自体が、知財をやっている人間の強みです。 分析の力の生かしどころが変わってきている、という言い方もできます。

そして私がいちばん危機感を持っているのは、モデルを作る力よりも実装する力のほうです。 知財の現場でこれを使いこなせている人は、まだそう多くない。だから、使い方と作り方を共有できる同志が要る。 もくもく会を始めた理由は、突き詰めるとここにあります。

03 ── 後半

稲葉凪さんが示した「業務フローそのものを設計する」

後半は、もくもく会をともに運営している稲葉凪さんに入っていただきました。 大学院で知財を学びながら、知財実務の要件をデータ構造・CLI・MCP・検証に落として設計・実装している人です。

示されたのは、ツールの紹介ではありませんでした。設計すべき対象は個別のAIツールではなく、業務フローそのものだという主張です。

ここで私が前半の比喩に引き戻すなら、こうなります。SQLiteが冷蔵庫で、JSONが保存容器です。 冷蔵庫は素材を決まった場所にラベル付きで置いておくところ。ラベルには「何か・いつの版か・どこから来たか」が書いてある。 JSONは、作ったものを次の人に渡す容器です。皿に盛って出すと味しか伝わりませんが、 容器に詰めてラベルを貼れば、次の人がそのまま使えるし、同じものをもう一度作れる。

原点は、文化祭のレジだった

印象的だったのが、稲葉さんの学びの入口です。もともとエンジニアではなく、SQLという言葉すら知らなかった。 ただ高専時代の同級生が、文化祭でレジのシステムを自作しているのを見ていた。それで 「だいたい何でもできるんだろう」と思えたのだそうです。

データベースがあれば必要な情報をピンポイントで取り出せるらしい、という程度の理解でAIに相談したら、 「それならSQLiteでローカルにできますよ」と返ってきた。そこから設計が始まっている。 押谷さんが「いまの時代、楽観主義はもう何物にも代えがたい」と応じていたのが印象に残りました。

環境そのものが資産になる

もうひとつ、身も蓋もない実感として語られていたのがこれです。 家で使っているPCと持ち歩いているノートPCに同じ指示を出しても、同じ品質のものは出てこない。 積み上げてきたスキルやエージェントが片方にしかないからです。

これは「フローかストックか」の話がそのまま個人の環境に現れた例だと思います。 使っている人と、チャットで止まっている人の差は、複利で開いていく。

04 ── 視聴者からの質問

「その不安は、どう払拭すればいいのか」

コーヒーブレイクで届いた質問が、この日いちばん答えるのが難しいものでした。 AIの発展に期待もあるが、不安もある。それをどう払拭すればいいのか、と。

最初に言ったのは「これは、僕も不安です」でした。十年後に知財の仕事で何をしているか、正直まったく想像できません。 20年以上前、新入社員として知財部門にいた頃に数ヶ月かかっていた仕事が、いまは驚くほど短い時間で終わってしまう。 自分は何をやるべきなのか、この半年はずっと悩んでいました。

それでも言えることが二つあります。

ひとつは、自分のスキルが陳腐化することを前提に置くということ。いま難しいと思われている作り方も、 いつか当たり前になるはずです。だから公開しています。抱え込んでも守れる優位は、そう多くない。

もうひとつは、問いの向きです。私は47歳ですが、この半年で学び直せました。今からでも学べます。 そのうえで自分に問うているのは、こうです。

これまでと同じことが、ものすごく速くできるようになったとき、
自分には解きたいものがあるだろうか。

ノーベル賞級の発明を、AIが手伝える時代が近いと言われています。仮にそれが自分の手元に来るとして、 その力で何を解決したいのか。そこを持っている人には、まだ十分に面白い時代です。

同じことをやり続けようとすれば、いつか無くなるかもしれない。それは不安です。 けれど作り出す側に回れば、話は変わります。不安が消えたわけではありませんが、私はそこに立つことにしました。

05 ── 自省

ドヤりたくなるのは、劣等感の裏返しだった

工場のたとえを最後まで引っ張ると、メモリとストレージが敷地で、GPUと電力が動力です。 そこにラインを引いて、何を作る工場にするかを決める。工場長になるのか、そこの作業員になるのかという話になります。

ただ、この話には影があります。苦労して学ぶほど、ドヤりたくなるのです。 「なんでやらないの」と思ってしまう。でもそれは劣等感の裏返しで、虚勢を張っているだけだと自分では思っています。 工場長になれたわけでも、資本家になれたわけでもないのに。

『女工哀史』を読んでいて、同じ構図に行き当たりました。明治の紡績工場で、主任は女工を何人か指示しているだけなのに 「自分は偉い」となって、とても嫌われ、その恨みが歌に残っている。 いま自分がエージェントに指示しているのは、あの主任と同じ形ではないのか。そう思ってから、少し楽になりました。

06 ── 話しきれなかったこと

宿題にします

このあたりは、あらためてnoteに書きます。

07 ── その先を読む

配信で言い切れなかった続きは、ここにあります

当日ふれた話には、それぞれ前から書いてきた元があります。順に置いておきます。

まず、自分の仮説への反証から

02で「大量出願はもう起きていると思う」と言いました。ところが、それと逆を向く実証を、私は自分で書いています。 米国の代理制度165年の歴史をたどると、制度が緩んだとき訴訟は溢れたが、出願は溢れなかった。 MITとUSCの実証もその線です。配信では時間がなくて出せませんでしたが、 自分の仮説に最も強く反対する材料なので、最初に置きます。

非対称戦・地政学(02のつづき)

冷蔵庫をつくる(01のつづき)

「料理人より先に冷蔵庫」と言ったものの、では実際どう作るのか。手順はここにあります。

工場を回す(01の82時間のつづき)

ドヤと切迫(05のつづき)

業務フローを設計する(03のつづき)

08 ── ここから

読むより、一行書くほうが早いです

ここまで読んでくださった方へ。教材は109本ありますが、全部読んでから始める必要はありません。 掲示板に一行だけ置いていってください。「これをやります」でも「ここで詰まっています」でも構いません。

集まれる日を待たなくて大丈夫です。もくもく会は非同期でも成り立ちます。 Xに書く場合は #ipfde を付けていただければ、こちらから見つけにいきます。

09 ── 当日の資料

スライドと、前回の回