一言でいうと — 不斉合成のノーベル賞技術で、いちばん稼いだのは技術の特許ではなく、完成した薬の「物」の特許だった。
原理から患者の手元の薬まで、お金は下流ほど大きくなります。不斉合成の価値は、主に次の三つの形で特許に乗りました。
片方の型の化合物そのもの、その塩、それを含む医薬品を押さえる。だれが払うか:薬を飲む患者と、薬代を払う保険。見つけやすさ:薬は市場に出るので、侵害は見つけやすい。
例:クロピドグレル(Plavix)、エソメプラゾール(Nexium)、エスシタロプラム(Lexapro)、レボフロキサシン(クラビット)
片方の型を安く、純度よく作る方法や、そのための触媒・部品(配位子)を押さえる。だれが払うか:直接は払われにくい。自社の製造コストが下がる形で回収する。見つけやすさ:工場の中で使われ、見えにくい。
例:モンサントの L-DOPA(パーキンソン病の薬)、高砂香料のメントール、S-メトラクロール(除草剤)、シタグリプチン(糖尿病の薬)の製法
片方の型を分けて測るカラム、触媒や配位子そのものを、研究や製造の現場に売る。だれが払うか:研究者と製造現場が、繰り返し買う。見つけやすさ:製品として売られるので見えやすい。
例:ダイセルのキラルカラム、高砂香料の触媒の外販、ソルビアスの配位子キット
この三つは、硤合反応の頁の4章で並べた「原理から医薬品まで、お金が流れる順番(バリューチェーン)」の、下流(A)・中流(B)・道具(C)にあたります。
点を押すと、何が起きたかと出どころが出ます(込み合ったところはラベルを省いています)。技術の発見から事業になるまで、また事業から特許の争いが決着するまでに、それぞれ十年単位の時間がかかっています。
すでに売られている左右混合物(ラセミ体)の薬から、効く方の型だけを取り出して新しい薬にすることを「キラルスイッチ」と呼びます。2002年の総説によれば、新しく出る薬の多くは、すでに片方の型だけになっていました。時期を上手に選んだキラルスイッチは、特許の切れる大型薬の「ライン延長」になりうる、とも指摘しています。
| 薬 | 特許 | 裁判所が認めた点 | 売上(公表資料) |
|---|---|---|---|
| クロピドグレル Plavix(抗血小板薬) | US 4,847,265(右旋性の型。1989年登録) | 米連邦巡回控訴裁判所 2008年12月(Sanofi v. Apotex):ラセミ体の開示は片方の型の新規性を失わせない。効き目はすべて片方の型に、神経毒性はほぼすべてもう片方にあるという「絶対的な」分かれ方はまれで、予測できなかった。自明でもない。 | BMS の Plavix 売上 70.9億ドル(2011年、BMS 分のみ) |
| エスシタロプラム Lexapro(抗うつ薬) | RE 34,712(再発行特許。元は US 4,943,590) | 米連邦巡回控訴裁判所 2007年9月(Forest v. Ivax):片方の型の作り方を教えない文献は、新規性を否定しない。ラセミ体の分割は難しく予測できない仕事だったという地裁の認定に誤りはない。英国控訴院 2008年:普通の物のクレームは、作り方が一つ示されていれば十分(貴族院も2009年に控訴を退けたと伝えられる)。 | Forest の Lexapro 売上 23億ドル(2011年度、同社売上の55%) |
| レボフロキサシン クラビット/Levaquin(抗菌薬) | US 5,053,407(S体。1991年登録) | 米地裁 2004年、連邦巡回控訴裁判所 2005年に維持:無効の立証なし。2010年(Ortho-McNeil v. Lupin):片方の型はラセミ体(オフロキサシン)とは別の薬なので、特許期間の延長(810日)は有効。 | ジョンソン・エンド・ジョンソン(J&J)の売上の2.5%(2008年)。日米欧合計の頂点は約30億ドル(2007年度、研究者の集計) |
| エソメプラゾール Nexium(胃酸を抑える薬) | US 5,714,504(片方の型の塩の製剤)、US 5,948,789(製法)ほか | Ranbaxy との争いは2008年に和解(判決ではない)。2013年(AstraZeneca v. Hanmi):特許の「アルカリ塩」は明細書の6種類に限られ、ストロンチウム塩は侵害しない。カナダ最高裁 2017年:「約束」を果たしていないという理由での無効は認めない。 | Nexium 世界売上 52.2億ドル(2007年) |
米国で片方の型の物質特許が残った例には、共通点があります。性質の分かれ方が予想を超えていたこと、そして取り出すのが難しかったことです(クロピドグレル、エスシタロプラム、レボフロキサシン)。クロピドグレルでは、分割に5か月の試行錯誤がかかったことも判決に書かれています。
反対に、混合物の効き目が特定の成分から来ると知られていれば、その成分を純粋にしたものは一応自明になる、と判断された例もあります(ラミプリル、2007年)。純粋にしたときの強さは「まさに予想どおり」とされました。なおこれは鏡写しの型(鏡像異性体)ではなく、立体の違う異性体(ジアステレオマー)の混合物の事件です。
片方の型の特許は、化学の中身ではなく、書き方の細部で争われることも多い分野です。
米国食品医薬品局(FDA)は1992年5月に、片方の型の薬の開発方針を出しました。大規模な分割や不斉合成で、片方の型を商業規模で作れるようになったことが前提です。方針は、型ごとの性質を調べるよう求めています。
一方で、承認済みのラセミ体の片方の型は「新しい化学物質」とは扱われませんでした。すでに承認された有効成分を含む、という理由です(1989年の提案規則・1994年の最終規則)。そのため、新しい化学物質に与えられる長いデータ独占期間は得られませんでした。FDA は1997年に、片方の型の開発を促すため、この扱いを見直す意見募集をしています。
規制による独占が弱い分、片方の型の物質特許と、その期間延長が価値を守る中心になりました。2007年の法改正で、片方の型を別の有効成分として扱うことを選べるようにもなっています。
ノーベル賞を受けた不斉合成の技術が直接乗ったのは、こちらの特許です。稼ぎ方は、ライセンス料よりも、自社の製造コストと供給力という形をとりました。
ノールズ氏の不斉水素化は、1974年から L-DOPA の工場で使われ、遷移金属のキラル錯体を使う最初の工業的な不斉触媒合成になりました(ノーベル財団の解説)。モンサントは水素化の方法(US 3,849,480、優先日1968年)と、触媒の部品 DiPAMP そのもの(US 4,008,281)を特許にしています。ノールズ氏はノーベル講演で、特許部門は「ロジウムにキラルなホスフィンを使うこと」を発明と考えていた、と振り返っています。触媒は原料の約2万分の1で済み、「ほとんど使い捨ての量」でした。
野依氏らの BINAP を使う不斉異性化で、高砂香料は1983年にメントールの不斉合成を世界で初めて工業化しました(同社の年表)。2001年の時点で、メントールは年約1,000トン、世界の需要の約3分の1でした(野依氏のノーベル講演)。製法の中心はエナミンを作る方法の特許(US 4,695,631、優先日1981年)です。触媒や配位子は長く社内だけで使い、いまは試薬会社を通じて外にも売っています。
野依氏のノーベル講演によれば、Ru-BINAP で作った (R)-1,2-プロパンジオールが、レボフロキサシンの工業合成に使われています(高砂香料・第一製薬)。高砂香料はこの原料を1992年に工業化し、製法の特許(EP 0295890)を持っていました。つまり同じ薬で、大きな売上は第一製薬の物質特許が守り、原料の製法は高砂香料の特許とノウハウが支えた形です。なお第一製薬は別の原料ルートも確立しており、当初からこの方法だったとは言えません。
除草剤メトラクロールは1976年に左右混合物で発売され、1982年に効き目の約95%が特定の型にあると分かりました。混合物の特許は1993〜94年に切れました。すると1996年に、片方の型を年1万トン超作る工場が動き出します。1997年には米国で、「同じ効き目を約65%の量で」得る製品が出ました。支えたのは、新しい触媒の部品(Josiphos 系、EP 0564406)と、酸を加える水素化の製法(WO 95/21151)の特許です。「現在、最大の不斉触媒プロセス」とされます。
糖尿病の薬シタグリプチン(Januvia)では、お金を生むのは物質特許(US 6,699,871、優先日2001年)です。その上に、次の特許が重なりました。塩(US 7,326,708)、ロジウム触媒による水素化(Merck とソルビアスの共有の US 7,495,123 など)、そしてそれを置き換えた酵素の製法(Codexis の US 8,293,507、優先日2009年)です。酵素の系統は2025年にも登録が続いています。製法の改良は、米国環境保護庁のグリーンケミストリー賞を2006年と2010年に受けています。
シャープレス氏の不斉エポキシ化は、スタンフォード大学(US 4,471,130)と MIT(触媒量で回す改良、US 4,900,847)が特許にしました。米国の化学会社 ARCO は、自社の特許の中で、この方法でグリシドール(β遮断薬の原料)の両方の型を商業的に作っていると書いています。大学から ARCO へのライセンスの有無は確かめられていません。
製法の特許は、工場の中で使われると侵害が見えにくい。日本の特許法104条の「生産方法の推定」は、出願前に知られていなかった物にしか働きません。この分野では、ノウハウとして隠す部分が大きい。工業規模の不斉触媒の事例を集めた本(2004年)では、声をかけた企業の著者の一部が執筆を断りました。主な理由の一つは「機密」でした。製法の価値は、特許・ノウハウ・商標(高砂香料の触媒や、S-メトラクロールの製品名)を重ねて守られています。
大阪大学の助手だった岡本佳男氏らが、片方の型を分ける充填剤を見つけました。ダイセルは「その発明を譲り受け」て、1982年4月に光学異性体の分離事業を始めます(同社の沿革)。1984年からは多糖誘導体に移り、これが今いちばん広く使われる充填剤になりました(2019年日本国際賞)。特許(EP 0147804 など、優先日1983年)は米国で2度再発行されています。米国(1990年)・欧州(1994年)・中国(2007年)・インド(2008年)に拠点を広げました。
ベポタスチン(抗アレルギー薬タリオン)の2013年の知財高裁判決に、その表れがあります。審決は、片方の型を分けるとき、当業者はまずダイセルのカラム(製品名 CHIRALCEL OD、CHIRALPAK AD)を検討する、と判断しました。判決は、この判断を誤りではないとしています。そのうえで、片方の型を得ること自体は容易だったとし、それでも予想を超える効き目を理由に進歩性を認めました。道具が当たり前になった分、片方の型の特許は効き目で勝負することになったと読めます。
触媒の部品を売る事業も育ちました。高砂香料は、SEGPHOS など自社の配位子(触媒の部品)を、試薬会社を通じて外にも売っています。ソルビアスは、配位子の試験キットと、最大100kg規模の供給を手がけています。ソルビアスは1999年にノバルティスの研究部門から独立した会社です(ノバルティスは1996年にチバガイギーとサンドが合併してできた)。
カガン氏の触媒の部品 DIOP にも特許があります(US 3,798,241、優先日1970年、出願人はフランス石油研究所)。この特許は、高砂香料の Rh-BINAP 錯体の特許(US 4,605,750)に、モンサントの DiPAMP の特許と並んで先行技術として引かれています。ノールズ氏もノーベル講演で DIOP に触れています。
さらに、エソメプラゾールの製法特許(US 5,948,789)は、カガン氏のチタン・酒石酸による硫黄の酸化(1984年)を出発点にしています。同特許によれば、元の条件ではオメプラゾールの片方の型が 5% ee(片方の型の多さを示す値)ほどしか得られず、塩基を加えるなどの改良が発明の中身でした。この特許は Ranbaxy との争いで主張された6件の一つです。
硤合反応は、製造の技術としては使われず、特許も権利として残りませんでした(続編の頁)。この頁の三つの稼ぎ方で言えば、A(物)にも B(製法)にも乗らず、価値は科学と道具の側に残りました。
対照的に、2021年の受賞者マクミラン氏は、最初の有機分子触媒の特許を論文発表の前(2000年1月)に出願しています(出願人はカリフォルニア大学)。ただ2021年の科学的背景が挙げる工業的な例は、ノバルティスのアリスキレンへの応用くらいで、商業生産の方法かどうかは書かれていません。
現在の特許・実用新案審査基準には、光学異性体やラセミ体を名指しした規定はありません。既知のラセミ体に対する片方の型の発明は、新規性・進歩性と選択発明の一般の規定で判断されます。選択発明の進歩性は、次の三つで判断します(第III部第2章第4節7)。効果が刊行物に書かれていない有利なものであること。その効果が「異質」、または「同質だが際立って優れた」ものであること。出願時に予測できなかったものであること。
裁判所は、優先日(1996年)には、光学異性体で生物への作用が違いうることが技術常識として広く知られていた、としました。そのうえで、ラセミ体が公知でも、型の間で作用が違うことを開示した点に新規性を認めています。1978年優先の事案で新規性を否定した1991年の東京高裁判決とは、時代の技術常識が違うとして区別しています。進歩性は、S体を得ることは容易としつつ、R体の約43倍・約100倍以上といった予想を超える効き目で認めました(2件。物質と医薬組成物)。
第一三共によれば、クラビットの物質特許と用途特許は、2006年の効能追加の承認にもとづき2011年5月まで延長されていました。後発品13社の無効審判で、特許庁は2008年12月25日を超える部分の延長を無効とし、知財高裁も2009年10月にその結論を維持しました。第一三共は上告していません。
いずれも、大学の研究と企業の工場・顧客が近くにあった例です。
| 型 | 押さえたもの | だれが払うか | 見つけやすさ | 代表例 |
|---|---|---|---|---|
| A 物 | 片方の型の化合物・塩・医薬品 | 患者・保険(売上そのもの) | 高い | クロピドグレル、エスシタロプラム、レボフロキサシン、エソメプラゾール、ベポタスチン |
| B 製法・触媒 | 不斉合成の工程、触媒の部品 | 自社(製造コストの差)/特許が切れたあとの供給力 | 低い(ノウハウと併用) | L-DOPA、メントール、S-メトラクロール、シタグリプチンの製法 |
| C 道具 | 分離カラム、市販の触媒・配位子 | 研究者・製造現場(繰り返し購入) | 高い(製品として売る) | ダイセル、高砂香料の外販、ソルビアス |
Plavix は BMS 分だけ、Nexium は AstraZeneca の世界売上、Lexapro は Forest の会計年度の数字です。レボフロキサシンの合計は研究者の集計(二次資料)です。頂点の年かどうかは、確かめた年の範囲での話です。
エソメプラゾールの Ranbaxy との結末は和解で、特許の有効性を裁判所が判断したものではありません。英国貴族院のエスシタロプラム判決(2009年)は判決文そのものを確かめられておらず、二次資料によります。
片方の型の重要性の例として、サリドマイドがよく挙がります。ただしサリドマイドは、体の中で右と左が速く入れ替わることが知られています(1995年の研究)。片方だけを飲んでも、害は避けられないとされます。裁判の判決の背景説明でも、単純化した形で語られています。
代表的な例を、公表資料で確かめられた範囲で選びました。キラルスイッチや不斉合成の工業プロセスには、ここに挙げていない例が多くあります。法的助言ではありません。
2026年10月8日に確認しました。
判決の要約は当サイトによるもので、引用の和訳も当サイトです。まとめと五つの学びは筆者の見立てです。法的助言ではありません。